以前、「当地の日本人旅行客が中国人の粗さがしをしている」と批難じみたことを別のブログに書いたことがあるが、自分自身を振り返ってみると最近粗が見え始めたのか、少し否定的なものの見方が多くなっている気がする。
これは、逆に考えてみれば、わが学院の学生たちにとっても、同じことがいえるのではないかと思う。
今までは一種のハネムーンで、お互いに物珍しさも手伝って、いわば寛容に見ていたものが、甘えも出てくるし、こうあるべきだという「べき論」もでてくる。
最近学生たちがルーズになってきた。欠席はする。遅刻はする。宿題はしない。私語はする。
こちらも、ついつい「何でこうまでやっているのに」という気持ちもでて、「静かにしろ。話しを聞かないなら、外に出ろ」としかるはめになる。
少し甘やかしすぎたかなと反省をしている。そこで、夏目漱石の「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。 意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。」が思い出される。
実に卓見ではないか。本当にその通りだと思う。しかしつらつら考えてみると、この文章は一般的な事象を書いたのではなく、漱石自身の考えであるし、受け止めである。何が言いたいかというと、彼自身にはあまり人間的な幅がなかったのではないかということである。もっと幅を持った、包容力がある人ならこうは書かなかったのでは思うのである。
従ってこの文章を「あ、なるほど卓見である」と感じ入る自分自身もまた人間としての幅がまだ足りないなと反省をしている次第である。漱石ほどの小説家であり、学者に向かってこのような発言は、甚だおこがましいが100年も昔の人のことでもあるし、お赦しいただこう。
漱石は英国留学時代ノイローゼにかかるほどの真面目人間である。そして日本に帰ってきても象牙の塔に立てこもり、自分を突き詰めた人である。 その点、自分もレベルが違うが、あまり遊んでこなかった。あまり遊んでこない人間は、この世の大部分を占めるそこそこ遊んできた人間の気持ちがよく分かっていないのではないかと思う。だから、あのようなぼやき節になってしまうのでは。
どうすれば、あまりやる気のない学生を引き付けることができるか、今日も悩む日が続く。
若い皆さん!今からでも遅くない。大いに遊ぶべし。私のような年齢で遊ぶと大やけどをするし、誰も許してくれない。若い時の失敗は許される。問題はそれを、自分の肥やしにできるかどうかである。

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