今年も授業は後3日を残すのみとなった。12月31日が最後の授業である。
彼らは1月1,2日は新年の祝日で休みであり、1月3日から期末試験である。
彼らは試験と聞くと目の色が変わる。眠たそうに、この世に面白いことなんかないよという顔で座っている学生たちも、「試験」の一言で、目をらんらんと輝かせ獲物を狙う雌豹のように私の一言ひとことに集中する。あたりは一瞬静まりかえり、自分でも何事が起ったのか驚くくらいである。
今の学生たちの力では、60点以上取れる学生は、おそらく数人だろう。後は結果を見て、自分の不勉強はそっちのけで、「日本語はむつかしい」ということになるのは、分かり切っていることである。
こちらとしては、この事態は避けたい。折角なだめたりすかしたり、褒めたり叱ったりして、4ヶ月間彼らを引っ張ってきたのに、わずか1回のテストで、「ご破算で願いましては」とされたのでは、やりきれない。なんとかして彼らの日本語に対する興味を持続させなければならない。
そこでやむなく、内容を「漏えい」し、彼らに勉強してもらうことになる。従って、最近では試験の内容を殆どそのまま解説している。
今は彼らには当日は教科書もノートも何も見るなと言ってあるが、こうなると先にあげたよく出来る数人を除いて全員20点以下になるので、どうしたものか悩んでいる。
また彼らは団結力が非常に強く、彼らの直面する難局に立ち向かうべく、相互扶助の精神を発揮することはほとんど間違いのないことで、いっそのこと本もノートも見てよろしいとすべきかなとも思う。本もノートを見ても何が書いてあるか理解しない学生はどうするかである。とするといっそのこと、隣の答案は見てもよろしい、しかし一つ離れたものは見るなとするのはどうだろう。
何のための試験だ?との声も上がりそうである。
私は終了試験は除いて、途中の試験はすべて彼らの自分のポジションを知らしめるためにあると考えている。後はなんだかんだ言っても建前である。
したがって、本を見てもいい、ノートを見てもいい。しかし隣の答案は見るなとだけ言いたい。
悪かったら修正できるのだ。それが学校である。世間に出たら、「もう一度勉強し直します」なんて言えないことを彼らに知らしめたい。 この厳しさは60年間の人生で嫌というほど味わってきている。 彼らに同じ轍は踏ませたくないのである。
2008年12月アーカイブ
以前、「当地の日本人旅行客が中国人の粗さがしをしている」と批難じみたことを別のブログに書いたことがあるが、自分自身を振り返ってみると最近粗が見え始めたのか、少し否定的なものの見方が多くなっている気がする。
これは、逆に考えてみれば、わが学院の学生たちにとっても、同じことがいえるのではないかと思う。
今までは一種のハネムーンで、お互いに物珍しさも手伝って、いわば寛容に見ていたものが、甘えも出てくるし、こうあるべきだという「べき論」もでてくる。
最近学生たちがルーズになってきた。欠席はする。遅刻はする。宿題はしない。私語はする。
こちらも、ついつい「何でこうまでやっているのに」という気持ちもでて、「静かにしろ。話しを聞かないなら、外に出ろ」としかるはめになる。
少し甘やかしすぎたかなと反省をしている。そこで、夏目漱石の「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。 意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。」が思い出される。
実に卓見ではないか。本当にその通りだと思う。しかしつらつら考えてみると、この文章は一般的な事象を書いたのではなく、漱石自身の考えであるし、受け止めである。何が言いたいかというと、彼自身にはあまり人間的な幅がなかったのではないかということである。もっと幅を持った、包容力がある人ならこうは書かなかったのでは思うのである。
従ってこの文章を「あ、なるほど卓見である」と感じ入る自分自身もまた人間としての幅がまだ足りないなと反省をしている次第である。漱石ほどの小説家であり、学者に向かってこのような発言は、甚だおこがましいが100年も昔の人のことでもあるし、お赦しいただこう。
漱石は英国留学時代ノイローゼにかかるほどの真面目人間である。そして日本に帰ってきても象牙の塔に立てこもり、自分を突き詰めた人である。 その点、自分もレベルが違うが、あまり遊んでこなかった。あまり遊んでこない人間は、この世の大部分を占めるそこそこ遊んできた人間の気持ちがよく分かっていないのではないかと思う。だから、あのようなぼやき節になってしまうのでは。
どうすれば、あまりやる気のない学生を引き付けることができるか、今日も悩む日が続く。
若い皆さん!今からでも遅くない。大いに遊ぶべし。私のような年齢で遊ぶと大やけどをするし、誰も許してくれない。若い時の失敗は許される。問題はそれを、自分の肥やしにできるかどうかである。
授業も大分進んできて、ここで何とか手を入れておかないと、あまりに分極化が進みそうだというわけで、本格的に補講を始めることとした。
そこで希望者をつのると、授業中寝ている学生も、携帯でゲームを楽しんでいる学生も一斉に名乗りを上げた。
そこで「本来は授業で云々カンヌン」と言ってきかせ、とりあえず25名程度に絞り、一度トライをしてみた。教室も小ぶりでこじんまりしている空き部屋を借りた。時間は夜6時から7時半までで、「あいうえお」の発音から始め、完全におさらいである。
授業は勉強したいものだけで、携帯電話はご法度で、相当に密度の濃い授業が出来た。
久しぶりの充実感。たまにはこういうのもいいものである。
しかし、思いつきのようなことばかり出来るわけではないので、1セッション10回と決めて、学生は総入れ替えをするということで、学生にも納得させた。
こうなりゃ、徹底的にやってやるぞと意気込んでいる。これが自分の悪い癖と知りつつである。
前にも言ったように3か月で、ずいぶん落ちこぼれに一路邁進している学生が顕著になってきた。
しかし、こうして縁のある身となった今、それを黙って見過ごすことはできない。学科主任と掛け合い補講用に小教室を借りた。今までの私のOfficeと比べると授業ははるかにやりやすい。
そのことを学生たちに告げ、希望者を募った。すると希望者は大変な人数となってしまった。本来補講というのは、授業を補強するもので、安易に考えてもらっては困るのだ。
そこで選別のために小テストを実施した。1か月前にやったのと同じ聞き取りテストで全問20問である。
彼らは「テスト」と聞くと、俄然真剣になる。教室も水を打ったように静まり返る。「おいおい待ってくれよ。要は君たちが普段からどれだけ身となり肉としているかだよ。なんでテストと授業と違うのだよ」
結果はやはり一ヶ月間の成果はそれなりに出ており、やっただけのことはあることには満足した。
それはそれとして、テストをしている間、本は盗み見する、隣と相談はする気が付いたら本は取り上げるものの、全くの無法地帯である。これは中国でなくともどこでも見られることで、あながち驚くことではない。 自分にも経験のあることだから、人のことは言えない。
しかしこちらとしてはある程度ほっておいて彼らの好きなようにさせた。
そして、テスト終了時に「御苦労さん、私はこのテストの結果は、補講の選別に使うつもりだ。このテストで非常に成績のいい人間は当然それだけの力がある人間だから補講からは外れてもらうつもりだ。」といったところ、彼らは「えー!」と一斉にブーイング。
しかし、「私は君たちに言ったはず。私は君たちの聞き取り能力を見たいからこのテストを実施したのであり、君たちの見る能力を知りたかったわけではないと」
彼らにとってはカンニングが裏目に出たわけである。やはり正道を歩んでほしいというのは、どの教師にとっても切なる願いである。
