塞翁が馬

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前回ブログの記事を書いてから、今日まで1ヶ月半沈黙をしてきた。というよりあまりに多くのことがあり、書けなかった。
 この間派遣先より突然の契約破棄の通告を受けた。これは完全に相手方の失態によるもので、当方にいささかの落ち度がないことを明らかにしておきたい。
 「人生いろいろ」というセリフが島倉千代子の歌にあったような気がするが、これはまだ色気があるが、鶴田浩二になると「人生まっ暗闇じゃござんせんか」といささかアウトローの雰囲気が出てくる。
 ともかく「人生これ塞翁が馬」。何があるか見当もつかないというのが、正直な感想である。細かいことはここでは言わないが、揚州を去ることになった。
 短い期間ではあったが、ご愛読いただいたうえ、温かく励ましを戴いた読者の皆さま方には心から感謝したい。
 このままおめおめと引き下がるわけにはいかないので、しばらくは中国を舞台にさすらいの旅は続くことになる。ICEAには今までとは異なる表題で寄稿させて戴くことになるだろう。
 今日でこのブログは打ち切りとする。さらば揚州!

期末にあたって

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 今日学期末のテストの採点と学校への提出書類をすべて完了した。期末の考査からいろいろの問題点が明らかになった。
  採点方法は、試験結果を6割評価とし、あとの4割は平時の成績、学習態度を勘案する。その結果、アニメの64名のクラスは、平均点51点で、欠点のものが34名出てしまった。
 一方ビジネスのクラスは、平均点66点で、欠点は19名である。これら欠点のものは、来学期に入って追試をすることになる。
 授業に出て、まじめに勉強すれば、欠点など取ることもないのだが、なかなかそうはいかないものだ。
 この平均点の差はどこから来るのかの分析が必要だが、全く同じ授業を同じ時期に始め、同じように進捗した結果なぜこれほどの差が出てしまったか?


  • クラスの人数の多いことの弊害が出ていること

  •        
  • 学生たちの一部に目標を失いつつあるものが出ていること

  •        
  • アニメの学生は一般に専門家意識が強く、語学にはあまり価値観を見出していない。

  •        
  • ビジネスの学生は、語学力が、ビジネスに直結するため、真剣に習得しようとしている。


これらの要因が彼らの学習態度、意欲に影響しているとすると、授業の進め方を変えたとしても、あまりいい結果は生まないだろう。この問題はそのような小手先の問題ではない気がする。
  彼らに希望と、方向性を明確に示すことは出来ないものだろうか。
  アニメという技術論に言語習得という課題をどう結合するか、これは難問である。それをうまく示せれば、彼らは喜々として、日本語を学ぶだろう。

試験

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 今年も授業は後3日を残すのみとなった。12月31日が最後の授業である。
彼らは1月1,2日は新年の祝日で休みであり、1月3日から期末試験である。
 彼らは試験と聞くと目の色が変わる。眠たそうに、この世に面白いことなんかないよという顔で座っている学生たちも、「試験」の一言で、目をらんらんと輝かせ獲物を狙う雌豹のように私の一言ひとことに集中する。あたりは一瞬静まりかえり、自分でも何事が起ったのか驚くくらいである。
 今の学生たちの力では、60点以上取れる学生は、おそらく数人だろう。後は結果を見て、自分の不勉強はそっちのけで、「日本語はむつかしい」ということになるのは、分かり切っていることである。
 こちらとしては、この事態は避けたい。折角なだめたりすかしたり、褒めたり叱ったりして、4ヶ月間彼らを引っ張ってきたのに、わずか1回のテストで、「ご破算で願いましては」とされたのでは、やりきれない。なんとかして彼らの日本語に対する興味を持続させなければならない。
 そこでやむなく、内容を「漏えい」し、彼らに勉強してもらうことになる。従って、最近では試験の内容を殆どそのまま解説している。
 今は彼らには当日は教科書もノートも何も見るなと言ってあるが、こうなると先にあげたよく出来る数人を除いて全員20点以下になるので、どうしたものか悩んでいる。
 また彼らは団結力が非常に強く、彼らの直面する難局に立ち向かうべく、相互扶助の精神を発揮することはほとんど間違いのないことで、いっそのこと本もノートも見てよろしいとすべきかなとも思う。本もノートを見ても何が書いてあるか理解しない学生はどうするかである。とするといっそのこと、隣の答案は見てもよろしい、しかし一つ離れたものは見るなとするのはどうだろう。
 何のための試験だ?との声も上がりそうである。
 私は終了試験は除いて、途中の試験はすべて彼らの自分のポジションを知らしめるためにあると考えている。後はなんだかんだ言っても建前である。
  したがって、本を見てもいい、ノートを見てもいい。しかし隣の答案は見るなとだけ言いたい。
悪かったら修正できるのだ。それが学校である。世間に出たら、「もう一度勉強し直します」なんて言えないことを彼らに知らしめたい。 この厳しさは60年間の人生で嫌というほど味わってきている。 彼らに同じ轍は踏ませたくないのである。

 以前、「当地の日本人旅行客が中国人の粗さがしをしている」と批難じみたことを別のブログに書いたことがあるが、自分自身を振り返ってみると最近粗が見え始めたのか、少し否定的なものの見方が多くなっている気がする。
 これは、逆に考えてみれば、わが学院の学生たちにとっても、同じことがいえるのではないかと思う。
 今までは一種のハネムーンで、お互いに物珍しさも手伝って、いわば寛容に見ていたものが、甘えも出てくるし、こうあるべきだという「べき論」もでてくる。
 最近学生たちがルーズになってきた。欠席はする。遅刻はする。宿題はしない。私語はする。
 こちらも、ついつい「何でこうまでやっているのに」という気持ちもでて、「静かにしろ。話しを聞かないなら、外に出ろ」としかるはめになる。
 少し甘やかしすぎたかなと反省をしている。そこで、夏目漱石の「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。 意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。」が思い出される。
 実に卓見ではないか。本当にその通りだと思う。しかしつらつら考えてみると、この文章は一般的な事象を書いたのではなく、漱石自身の考えであるし、受け止めである。何が言いたいかというと、彼自身にはあまり人間的な幅がなかったのではないかということである。もっと幅を持った、包容力がある人ならこうは書かなかったのでは思うのである。
 従ってこの文章を「あ、なるほど卓見である」と感じ入る自分自身もまた人間としての幅がまだ足りないなと反省をしている次第である。漱石ほどの小説家であり、学者に向かってこのような発言は、甚だおこがましいが100年も昔の人のことでもあるし、お赦しいただこう。
  漱石は英国留学時代ノイローゼにかかるほどの真面目人間である。そして日本に帰ってきても象牙の塔に立てこもり、自分を突き詰めた人である。 その点、自分もレベルが違うが、あまり遊んでこなかった。あまり遊んでこない人間は、この世の大部分を占めるそこそこ遊んできた人間の気持ちがよく分かっていないのではないかと思う。だから、あのようなぼやき節になってしまうのでは。
 どうすれば、あまりやる気のない学生を引き付けることができるか、今日も悩む日が続く。

 若い皆さん!今からでも遅くない。大いに遊ぶべし。私のような年齢で遊ぶと大やけどをするし、誰も許してくれない。若い時の失敗は許される。問題はそれを、自分の肥やしにできるかどうかである。

補講

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 授業も大分進んできて、ここで何とか手を入れておかないと、あまりに分極化が進みそうだというわけで、本格的に補講を始めることとした。
 そこで希望者をつのると、授業中寝ている学生も、携帯でゲームを楽しんでいる学生も一斉に名乗りを上げた。
 そこで「本来は授業で云々カンヌン」と言ってきかせ、とりあえず25名程度に絞り、一度トライをしてみた。教室も小ぶりでこじんまりしている空き部屋を借りた。時間は夜6時から7時半までで、「あいうえお」の発音から始め、完全におさらいである。
 授業は勉強したいものだけで、携帯電話はご法度で、相当に密度の濃い授業が出来た。
久しぶりの充実感。たまにはこういうのもいいものである。
  しかし、思いつきのようなことばかり出来るわけではないので、1セッション10回と決めて、学生は総入れ替えをするということで、学生にも納得させた。
  こうなりゃ、徹底的にやってやるぞと意気込んでいる。これが自分の悪い癖と知りつつである。

小テスト

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前にも言ったように3か月で、ずいぶん落ちこぼれに一路邁進している学生が顕著になってきた。
  しかし、こうして縁のある身となった今、それを黙って見過ごすことはできない。学科主任と掛け合い補講用に小教室を借りた。今までの私のOfficeと比べると授業ははるかにやりやすい。
 そのことを学生たちに告げ、希望者を募った。すると希望者は大変な人数となってしまった。本来補講というのは、授業を補強するもので、安易に考えてもらっては困るのだ。
 そこで選別のために小テストを実施した。1か月前にやったのと同じ聞き取りテストで全問20問である。
 彼らは「テスト」と聞くと、俄然真剣になる。教室も水を打ったように静まり返る。「おいおい待ってくれよ。要は君たちが普段からどれだけ身となり肉としているかだよ。なんでテストと授業と違うのだよ」
 結果はやはり一ヶ月間の成果はそれなりに出ており、やっただけのことはあることには満足した。
 それはそれとして、テストをしている間、本は盗み見する、隣と相談はする気が付いたら本は取り上げるものの、全くの無法地帯である。これは中国でなくともどこでも見られることで、あながち驚くことではない。 自分にも経験のあることだから、人のことは言えない。
 しかしこちらとしてはある程度ほっておいて彼らの好きなようにさせた。
 そして、テスト終了時に「御苦労さん、私はこのテストの結果は、補講の選別に使うつもりだ。このテストで非常に成績のいい人間は当然それだけの力がある人間だから補講からは外れてもらうつもりだ。」といったところ、彼らは「えー!」と一斉にブーイング。
 しかし、「私は君たちに言ったはず。私は君たちの聞き取り能力を見たいからこのテストを実施したのであり、君たちの見る能力を知りたかったわけではないと」
 彼らにとってはカンニングが裏目に出たわけである。やはり正道を歩んでほしいというのは、どの教師にとっても切なる願いである。

この数字は何の数字かご存じだろうか?そう、言わずと知れた、外国語を習得するときの、到達レベルと学習期間の関係である。あくまでも一種の統計上の数字であり、絶対的なものではないので、ご注意頂きたい。
  「10歳ぐらいまでなら3日あれば慣れる。20歳ぐらいなら3カ月あれば堪能になれる。30歳ぐらいなら3年あれば慣れる。40歳を過ぎると何年やっても駄目だ。」(ダメというのは、レベルの問題であって、外国語はちょっとでもいいから勉強するに越したことはない。分かると分からないとでは天と地の開きがある。これは私の半世紀以上の苦い経験から言える確かなことだ)
  この年齢と外国語の習得レベルの相関関係は確かに言えるのかも知れない。母語の母斑というのは、なかなか取れないものだ。われわれ日本人にしみついた言葉の母斑ではなく、お尻の青いあざは20前後には大体なくなるもので、これは人間の成長とある関係があるのかも知れない。最近30になっても、40になってもこの蒙古班が取れない人がいて困った現象が生じているようである。犯罪でも、「何だこの甘えは」と思わせるものが多すぎるのではないだろうか?
  わが大学の学生たちも、なんだこれはと思わせるのがいる。最も私は彼らの過去を知らないので、あくまでも「現代学生考」という観点からこれを書いている。
  さて、人間の未熟さの話はさておき、(あんまりこれを書くと、「天に向かってつばを吐く」なんて汚いことになるので・・)本来の言葉の話に戻そう。
  こちらに来て日本語を学生たちに教え始めて3か月。学生たちも同じことが言えて、「日本からわけの分からんおっさん教師が来て、訳の分からん中国語を時折交えて話すものだから、余計に分からんようになる」日本語を習い始めて3か月。
  とはいえ、時の経過とは恐ろしいもので、学生たちの間にも歴然とした学習履歴の差が表れ始めている。よく出来る学生は、授業の内容はほぼ完ぺきに理解し、聞き取りに少し難があるものの、簡単な文章なら漢字も交えて、ほぼ完ぺきに近い日本語を書く。
  一方、教室で涎を教科書に垂らしながら熟睡している学生は、今だに平仮名も覚えていなくて、五十音表を手放せないにもかかわらず、その使い方も分かっていないことになる。
  この前、後ろ方の席に座っている学生に、「君は一時間半何も書かず、何も言わず、ただ座っているだけなのは苦痛だろう。何のために来ているのか」と聞くと、ズバリ「先生、私は卒業したらいい仕事に就きたいと考えているんやけど、このクラスにいるのは有利になるんと違いまっか・・。」とのたまう。
  言葉の習得には動機が重要で、いかに動機づけをするのかが教師の最大の課題ではないか。  海外で街を歩いていると、「社長!」と声をかけてくるのは、まず間違いなしにポン引きで、「いい子がいまっせ!」と流暢な日本語がそれに続く。彼らの語学習得期間はおそらくこの辺りの会話に1週間もかけないのではないだろうか。彼らも生きるために必死に日本語を習うだろうし、教える方も一日も早く馬鹿な日本人をうまく釣りあげてこさせるように仕込むのに必死であろう。 
  このように動機さえあればと歯がゆい気持ちになる。
  私の担当するクラスの一つはアニメのクラスだ。彼らのうち男子学生は本当に勉強しない。あんまり勉強しないので、君たち、少し教科書の中の会話を漫画にしてくれというと喜々として漫画を書く。そしてアニメのクラスというだけあり、そこそこ結構な漫画を書く。彼らがこれだけの力を持っているなら、この上に日本語(何語でもいい)の能力を付ければ、大変な武器を手にすることができるのだが・・。

  前報で学生たちの現在の問題点について触れたが、自分自身が、何年たっても英語を聞く力も読む力もつかなかったことを考えてみれば、今のわが学生は環境が整っていないといえ、いい方なのかも知れない。自分にもできなかったことを他人に期待してはいけないと反省しつつも、「自分のことを棚に上げずして先生が出来る人間はこの世にいるものか」と開き直ったりもする。
  しかしながら、原点に戻って出来るだけ、五十音表を復習するようにしている。
 その中で、「じてんしゃ」という読みを書きとりさせたら、「ぎてんしゃ」と書く学生がいた。そこそこできる学生なので、よく聞いてみると、かれは50音表を参照して、そのなかの[gi]というローマ字をふってある平仮名を探し当て、「ぎ」という平仮名を書いていたというのだ。読みの練習が足りなかったといえばその通りだが、外国で「gi」と書いて、「ぎ」と発音してくれるのは、稀と言ってよく、大概は「じ」と発音されることを思い出し、なるほどと思ったと同時に50音表の欠陥?も改めて考えさせられた。
 大体50年も60年も前のものをそのまま使うのは「ヘボン式」ではなく「へぼ式」といわねばならない。その半世紀の長い間に人々の語彙もずいぶん増え、それと同時に昔はなかった発音も新しくつかわれるようになっている。
 むかし、「ギョウテとはおれのことかとゲーテ言い」という川柳があったが、Oーウムラウトはまだ取り入れられていないにせよ、昔は「パーチー」と発音された「Party 」 も今では、殆どの人が「パーティー」と発音するようになっている。そのように時代と共に、ある音は退化してなくなり、ある音は新たに取り入れられ発展しているにも関わらず、五十音表は相変わらず私が習った50年前から変わっていないというのは一体なぜだろう。
 ちなみに私の父は「水」を「みづ」と発音し、「ず」と「づ」の使い分けをしていた。どちらが正しいの問題ではなく、今では明確に「づ」の音はなくなっているのだ。その内「つづき」もなくなり。「つずき」になるかも知れない。それはそれでいいと思っている。
 それに加えもう一つ大きな問題がある。最近は「チャット」という会話方式がいきわたるようになった。ということは従来の音声と平仮名の読みの一致だけでは許されなくなってきた時代である。
 事実五十音表では「ぢ」という字に「ji」というローマ字があてられている。音だけであればこれでいい。しかし、これを教え込んでチャットをやろうとした場合、問題が発生する。「ji」という入力をすると「じ」となり、「di」と入力して初めて「ぢ」という文字がでてくる。「はなじ」でも良しとするのか「はなぢ」とするのか、非常に大きな問題ではないだろうか。
  このように言葉や音をめぐる環境の変化は劇的に変化しているにも関わらず、旧態依然として「へぼ式」ならぬ「ヘボン式」を使うのか。日本の教育界の体質が古いのか、あるいは知らないのは私だけなのか?知らないのは私だけなら救いがある。至急、「みんなの日本語」の五十音表が改定されることを期待する。
  しかしこの仕事は大変な仕事であることは容易に理解できる。なぜならローマ字を平仮名に当てるということ自体が無理があることなのは事実だからだ。
 平仮名の読みにしたって、平安時代から絶えず変化してきたのだから。 しかし本当にこれでいいのかという検討は常になされなければならないと考えている。

授業も2ヶ月半になると少し余裕が出てきたのか、教科書の気になる点が「気になり」だした。この教科書は確かに十分長い実績を持っているだけのことはあると認めつつも、運用面での幅が欲しいところである。

 第一課で、「わたしはXXじゃありません。」という表現が出てくる。ここでは、「わたしはXXではありません。」という言い方もあるが、「じゃありません」という言い方がむしろ勧められている。

 わたしは学生には出来るだけシンプルに、汎用性がある表現方法を教えようと心掛けているが、そこで最初に引っ掛かったのは、この表現である。なぜ基礎の基礎の段階で「じゃありません」という言い方を主として教えなければならないのか疑問に思っている。

 「じゃありません」という言い方は、「です。」「ではありません。」という言い方(体系)からは音の響きも文字の使い方も大きくずれてしまう。学生にとっては全く異質のものであると考える。

 もう一点、日にちの数え方である。これも第五課の段階で、ようやく数字も数え、お金も、電話番号も言えるようになったかならない段階で、まったく新しい言い方をここでなぜ教えなければならないのか理解できない。

 この段階では「日本人は普通に数字を数える時と違う言い方で日にちを数えますよ。ぐらいにとどめて、あなた達は今の段階では『いちにち、ににち、さんにち・・』という言い方でいいですよ。しかし出来るだけ早く覚えてね。」ぐらいに済ますことが出来ないのか。 

 外国人が全く異なる言語体系を学ぶ際には、出来るだけその負担を軽くし、早く慣れるように援助するのが大事なことではないだろうか。私にとってはこの教科書は、敷居が高いように思われるのだが。

 この週末に聞き取りの小テストを実施した。わずかに10個の単語を聞き取り、それを書きとれるかのテストである。結果はアニメのクラスとビジネスのクラスとで全く異なる結果であった。同じ時期に日本語の授業を始め、全く同じ教科書を使っているにもかかわらず、こうも異なるとは予想だにしなかった。

 また同時に今更ながら、母語の「母斑」の強さを再認識した次第だ。裏を返せば、日本語の音韻の刷り込みが不足しているともいえるのだが・・。彼らには、私の授業以外日本語に触れる機会が全くない状況では不足するのも当たり前だ。   

 これの克服には練習こそすべてだが、日本のようにテープレコーダーがそこらへんに転がっているわけではない、パソコンを持っている学生は数えるほどしかない状況の下では、学生の意欲だけが頼りである。

 自分の中学時代を思い起こせば、彼らの置かれた状況がよく理解できる。しかし現実にはどうすればいいのか悩みは続く。 

 現在教科書では第4課を終えたところだ。1週1課という流れもほぼ定着できてきたと考えている。ただ、このペースだと余裕が全くなく、テストや纏めなどに割り当てる時間がまるでないので、もう少し緩急をつけカリキュラムの中に「遊び」を作る必要がありそうだ。

 今までは学生たちの課外での学習に期待をしていたが、よくよく考えてみると、それは期待であって、教師のサイドから考えると授業はあくまで授業の中で完結せねばならないと思う。たとえばわが中国のように、学生たちはテープレコーダーはおろかCDデッキなど全く持っていない。そして何より学生たちの普段の生活を全く把握できていない状態の中で、学習だけをその中に割り込ませること自体無理があると考えるようになった。

 しかし授業の中で完結させるためには、その授業を管理できていなければならない。私は前にも云ったように2クラス持っている。1クラスは64名のクラス(このクラスの人数は記事を書くたびに1名ずつ増えている。もうこれ以上は増えることはなかろう)、もう一つは55名のクラスである。2ヶ月を過ぎこの両者の学習の到達度には歴然とした差が表れ始めている。55名のクラスは、教師の話もまじめに聞き、予習までしている学生も多くいる。もう一つのクラスは、女子学生は80%ほどで大勢を占めていることには違いないが、やはり男子学生に引っ張られる部分が多いのか、私語はする、人の話は聞かないなどで、授業中の集中度が低下している。

 この原因の一つには、環境の問題も大きいと思われるので、学校側に改善望をお願いすることになる。

 もう一つには、教師サイドの問題として、どうすれば彼らを掌握し、今は別の方向に向いている意欲をこちらに向けさせることができるか、毎日そればかり考えている。